12月8日、開戦の日が近づくと♪ 名誉の戦死 ♪を♪ メイヨのトンシ ♪とする「湖畔の宿」の替え歌が浮かんで来ます。生まれて間もない豚の子が豚死する歌詞に「戦」の語はありませんが、敗戦後まもなくの頃、子どもがこのフレーズを歌ったときのおとな達の様子から戦争に結びつく歌になりました。
敗戦後8年、小五の春の放課後「モンテンルパの兵隊さんへ」の手紙を清書しているとき、
校舎隣接の畑の方から突然、素っ頓狂な♪ メイヨのトンシ♪が響いてきました。
声から、先に下校する男子が農作業中のおとなを真似たと分かると教室の一人が笑い出し、
見守りの先生がぽつりと呟きました。「子どもがふざけて歌ってはいけないな」
受け持ちの先生よりずっと年長に見える男先生でした。
その年の秋、
幼い弟が年長の子達と戦争ごっこです。
隣接の墓地や孟宗竹の林を駆け巡り、庭に出てくると「メイヨのトンシ」と叫んでは倒れ、蹲り。
ちょうどそのとき、病弱な母の為に定期的に漢方薬と水飴を隣町から届けてくれるお年寄りが来合わせ,
「○○○○な!」と一声で騒ぎを収めてしまいました。
幼少時より、一太刀で相手を倒すとする薩摩古武術の修練を積んでおり、日頃感情を顕わにすることなど全くなかった人です。ましてや、子どもの遊びなどに。
8年後、その人が亡くなったときの母の話は。
42歳で奥さんに死なれ、4歳から17歳までの3男4女を男手で育てた。
先祖伝来の金具まで供出して戦争に協力した。
奥さんが亡くなったとき、10歳だった長男の戦死の公報は敗戦2年後。
遺骨はなく、箱の中に「昭和19年ソロモン諸島ブーゲンビル島で戦死」の紙切れ1枚。
「自分の墓は不要。長男と一緒の墓に」と言い遺した。
次女の夫も戦死。
のほほんの私が、トンシは「豚死」ではなく「徒死」だと気付いたのはもっと後のことでした。